愛をあきらめないで(3)

(前回からの続きです)



諦めてしまった愛を、もう欲しがらなくてよくなるために、ヨロイを着込んでしまってることがあるんだよ、っていうお話をしました。


愛されたいと思うなんて みっともない、とか。
認められたいと思うなんて 卑しい、とか。

自分の周りには ろくな人間がいない、とか。
人間なんて損得でしか動かない、とか。

どうせ誰にもわかってもらえない。とか。
自分は非常に特殊な、欠陥のある人間だ。とか。


そんなヨロイです。


そ して、思考も感情も行動も、このヨロイに合ったものが出てくるように 無意識がコーディネイトしていますから、こういった理屈=自意識のようにさえ、ご自 分の中では感じられているし、このヨロイに触るものを感じると、意識の中で強烈に警報が鳴り出し、恐怖を感じます。体調を崩すことさえあります。


でも。

ここで 思い出してほしいのは、


このヨロイは、もともと、誰にでもある自然な感情を否定するために、無理矢理着込んだものなんだ、っていうことです。


つまり このヨロイを脱いだときに直面するのは、
「愛がほしい」という気持ちと
「愛を求めても無駄」という気持ちとの間の
「葛藤」であって、


愛を失うっていうことではない、っていうことです。


理屈たちが言い立てるような 
自分の「みっともなさ」や「惨めさ」や「欠陥」、
あるいは「ひどい人間たちに利用される」
という事態に出会うわけではない、っていうことです。


そして、このヨロイを着込むことになった理由
・・・つまり「愛を求めても無駄だった」っていう経験は、
もうずーっと過去に起きたことだ、っていうことです。



ちなみに。
カウンセリングセッションの中で、「インナーチャイルドの癒し」というワークを行うことがあります。


誘導をして、ヨロイを着込むことになった最初の場面まで人生を遡っていっていただくのですが、ほとんどの方がそこで目撃するのは


「子どもらしい笑っちゃうような失敗」(でも、○才の自分にはショック)とか

「ちょっとしたすれ違い」(子どもで視野が狭くて気づかなかった)とか

「子ども的理由(語彙がない、経験がない、勝手な期待など)による勘違い」とか
 

・・・・の、ような場面なのです^^;


逆にね、記憶に残ってるような「大変だったコト」って、案外 子どもなりに理解して 乗り越えていたりするようなんですよ・・・^^



ですから。


愛を諦めないでください。


たかが一晩のガラス板1枚のために おめおめと死ぬことなんか、ありません。